日常の世間話的なことを、極めて個人的偏見で、つれづれなるままに書き連ねたエッセイ的雑記帳。
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■古典睡眠学習■
2002/11

 母と初めての「能」鑑賞。兼ねてより「いっぺん見てみたいわぁ〜」と言っていた母の言葉が頭の片隅にあり、そんなとある日の新聞に「演能会のお知らせ」の記事を発見。早速チケットを手配、母と2人で奈良にある、国立能楽堂に足を運んだ。
私は学生の時に古典芸能(主に歌舞伎)に目覚め、一時は小屋通いにハマったという経歴もあり、また、母も娘時代祖母の影響で茶道や三味線など、日本女子のたしなみ(?)一般を一通りかじった、という古典好きでもある。そんな私達なので、実際の檜(ひのき)舞台を前に、妙にウットリとハイソな心持ちになり、馥郁(ふくいく)とした檜の香りに包まれて、言葉使いや身のこなしまでしっとりとなって来る始末。要は、状況に感化されやすいだけではないか?思わず隣に居る母を「お母さま」と呼んでしまいそうな勢いだ。
やがて舞台が始まる。とある能一派の「発表会」的な公演だったので、親切にも演目の作品解説を、どっかの大学の先生がちょっと寒いダジャレ混じりに進めてからの開演であった。大学の教員特有の物腰の柔らかな口調と落とし処のない話題。学生時代の記憶も手伝い、つい数秒〜数分、船を漕いでしまう。(註…船を漕ぐ=上半身をゆらゆらさせつつ居眠りをする様のたとえ)解説のコーナーが終わった事を告げる客席の拍手で、なんとか正気を取り戻す。いよいよ本編。
うすうすは分かっていたが、「能」という舞台表現は独特の「間」でもって進行される。常に「そろりそろり」。ドタバタ走り回るなどという事がない。歌舞伎にある華やかさを求めるのは無理があるが、せめて狂言のテンポには近いのでは?という予測は意外にも裏切られた。遅い…。あまりにも動作が遅いのである。そのテンポを味わう余裕は残念ながら若輩者のわたしには備わっていない。歌舞伎でいうところの「花道」からの登場にしても、袖から舞台までなかなか辿りつかないのだ。やがて間が持たなくなり「ええい!チンタラしてんと、ちゃっちゃと出てこんかい!!」と、心で呟いてしまう。おっと、危ない、上品に上品に…。
そうこうして心の中で戦っているうち、抗いきれない睡魔に支配されてしまうこと3たび。しかし私以上にしっかり「船を漕いでいた」のは、誰あらん、隣の母だった。あのままでは大阪湾に漕ぎ出してしまったかもしれない。公演終了後、「なぁ〜んか、癒されたわぁ…。スッキリしたわぁ。」と言う母の感想を聞いて「そらぁあんだけ爆睡したらスッキリもするやろ。」と思うと同時に若輩者も熟年者も、きっと庶民は一様に眠いだけの演目なのだ、と、ひとり納得してしまった私。
芸術なんてこれでいいんだ。母さん、また癒されに来ようね。うんうん。
演能会の関係者の方々、大変失礼致しました。この場を借りておわび申し上げます。(合掌)